(十二) 自治会の対応
年が明け、平成七年一月中旬、河端の二階に久保達一自治会会長と河端の父である河端昭一副会長と坂上の四人によって今後の太鼓台建設に関して意見が交わされた。会長、副会長が太鼓台建設に関して当初から理解を示してくれていたのは二人にとって大きなプラスだった。久保会長が言った。「署名の方はどうなっとんかいのう。過半数いったんかいのう?」坂上が応えた。「え~と、一応過半数はいっています。」久保会長が間髪を入れず言った。「ほうか、過半数いったんか、とにかく、こういう事は気運が盛り上がっとる時に一気に進めんといかん。まず、役員の皆さんの指示、協力を仰ぎなさい。まあ、役員の中で反対する者はおらんだろう。その後、住民に建設負担金のお願いをしたらええ。早急に役員会を開かないかまい、なあ昭ちゃん。」思った以上に会長、副会長とも積極的だった。勿論、坂上、河端、二人にも異存はない。ビール等飲みながら、自治会役員会開催日が決定され、坂上と河端の二人は出席し、太鼓台建設に関して経過報告、及び協力のお願いをする事にした。
一月下旬、川之江公民館二階和室には、自治会役員十数名がすでに座っていた。坂上と河端、そして潤二にも声をかけ、三人が緊張した面持ちで席に付いた。久保会長の進行に従ってまず、坂上が経過報告をし協力をお願いした。続いて河端が補足説明をした。少しの静寂があっていきなり場が盛り上がった。役員が口々に「わしら賛成してあげるやな。あとはあんたら頑張らんといかんで。」と激励してくれた。久保会長が先日言っていた「まあ、役員の中で反対する者はおらんだろう。」その言葉どおりだった。多くの役員が積極的に太鼓台建設を支持してくれたのだ。予想以上だった。三人は自治会役員の皆様に感謝しながら公民館を後にした。同時に、会長、副会長の権限と根回しに大人の組織を感じたのである。
潤二が顔をほころばしながら「ホントよかったですね。上手い事いって。」と言った。坂上が「どっか、飲みに行くな。」と言った。河端は「そうじゃな。」と言った。大人太鼓台建設に大きく前進した夜の事だった。
(十三) 太鼓台運営委員会発足
大人太鼓台を持っている町には保存委員会と運営委員会があるらしい。保存委員会は太鼓台物品の維持管理を目的とし、運営委員会は祭りのスムーズな実施を目的とする。河端は鉄砲町の宇野さんよりアドバイスを受けた。保存委員会は自治会役員の皆様にお願いしよう、ならば、我々は運営委員会のメンバーになろう、二月初旬、栄町組合事務所で栄町太鼓台運営委員会が発足された。尚、栄町太鼓台運営委員会は、その後、保存委員会としての役目も果たしていく。メンバーは、水本、星山、繁美、坂上、河端、福山、潤二、若干八名の船出だった。人数は少ないがまさに同志の集団ではあった。
「さて、会となったら、会長がいるわなあ。誰なるな。」と、水本は言った。河端が直ぐに言った。「水本さんどななですか?」水本はメンバーの中の最高齢である。「何言よんな。会長は若い人せんといかない、河端君せんかな。」水本も直ぐに言い返した。「まあ、わしら同級生で考えてみます。」河端はそう言いながら、坂上、福山に視線をやると、坂上も福山も静かに頷いた。
数日後、坂上の家に河端と福山が集まり、三人で意見交換し、太鼓台運営委員会の役職が決定された。会長に坂上、副会長が河端、会計が福山になった。当時三人は三十代半ば、最高権限を得ると同時に、全ての責任も負う事になった。
二月下旬、太鼓台運営委員会の名のもと、建設負担金のお願い文書を栄町住民に配布、結果、栄町住民の九割近くが協力してくれる。月掛け一口二千円、五年間払い、寄付総額十二万円を原則としたが、半口寄付総額六万円から五口寄付総額六十万円、様々な環境で、様々な形で協力してくれたのである。大人太鼓台が確実に栄町のものになっていく。
(十四) 執筆者間想
農人町太鼓台はその後、古町に譲られました。栄町太鼓台が建設された二年後です。栄町には譲ってくれなかったのになぜ古町には?という疑問を持ちました。考えられるのは、栄町が農人町に正式に譲り受けを申し込む以前から、栄町の一部の者が、農人町が栄町に譲ってくれる事を既成の事実として内外に触れ回った事が考えられます。まるで中古車の売買のように太鼓台を考えていたのです。私が農人町の住民であるならば、そのような栄町の行為はいやでしょうね。太鼓台を理解していない典型の行為です。又、農人町も先代太鼓台に深い愛着があったのも事実でしょう。それ故、保管しようとしたと思います。ただ二年間の保管期間で、保管場所等の問題が改めて生じてきたのと、古町の礼儀を尽くした交渉に納得して手放す事を決定したように考えられます。
河端の家に農人町の尾山さんが訪ねて来た。栄町太鼓台が建設され、二年目の祭りを終えた晩秋の夕方だった。尾山さんは農人町の世話人の一人である。尾山さんはいきなり河端に謝った。先代農人町太鼓台を栄町には譲らなかったのに、今年、古町に譲る事になった、栄町には申し訳なかったという内容だった。河端も尾山さんの律儀さに感謝しながら尾山さんに報告をした。団旗を作って今年の運行には取り付けた事を。初年度の運行を終え、時期は十二月初旬の事である。スナックで尾山さん達と偶然会った。尾山さんが「栄町さん、団旗がないですね、団旗は作った方がいいですよ。」と言った。河端達には栄町太鼓台が市内で団旗を付けていない唯一の太鼓台であるという自覚さえなかったし、尾山さんに言われなければ検討課題に団旗製作を入れ
なかっただろう。河端は団旗の製作手順を尾山さんからアドバイスを受け、後日太鼓台運営委員会で提案した。そして二年目の運行には無事団旗を取り付ける事ができたのだ。